2011年11月エントリー一覧
繁昌亭のこと2011(1)
2011年11月4日 投稿者:日高 美恵 カテゴリ:らくごくら
2006年の9月15日にオープンした天満天神繁昌亭は今年で開席5周年を迎えた。5年前、大阪では長く絶えていた落語の定席が約60年ぶりに復活するという朗報に落語ファンの期待は大きくふくらんだ。昔はたくさん見られたテレビやラジオの落語番組は減っている上に、放送されるのは上方落語ばかりではない。落語はやっぱりライブで楽しむのがいいと声高に言われているが、その実、開かれている落語会の数は限られている。落語を追いかけ、好きな噺家さんを見ようとファンは落語家本人から送られてくる落語会のDMや手にしたチラシ、数少ない情報誌や新聞などを頼りに落語会に通い続けた。
東京では鈴本演芸場、浅草演芸ホール、新宿の末広亭、池袋演芸場の4つの定席に加え、丸々一カ月というわけではないが、国立演芸場でも落語や演芸を楽しめる。一方、上方ではワッハ上方7階のレッスンルームや4階の上方亭、トリイホールなどのホールや劇場スペースでいくつもの落語会が開かれてはいたが、専用の小屋はなく、お寺や神社、飲食店などさまざまなところで落語会が開かれていた。だが、そこに行けば必ず毎日落語を楽しむことができるという場所は長らく上方にはなかった。「落語をどこで聞けばいいのか」という質問の答えに窮している落語家たちも多かった。桂三枝上方落語協会会長自身もこの質問を受けたのがきっかけとなって繁昌亭の実現を目指したという。「ここに来ていつでも落語を楽しんでください!」と胸を張って答えることのできる日が来ることを多くの落語家が夢見ていただろう。
戦後、落語家が減り、「上方落語を残していくには落語の定席が必要」という六代目笑福亭松鶴師匠の強い思いから、上方落語協会主催の「島之内寄席」がスタートした。しかし、島之内教会を皮切りにスタートした「島之内寄席」はその後、幾度も会場移転を余儀なくされた。スーパーマーケットの中や心斎橋の料亭など新天地を求めて移転せざるをえない状況は本当にたいへんだったろうと思う。当時のパンフレットを見直してみると、豪華なメンバーが顔を並べているが、やはり会場ごとに会の雰囲気はずいぶん違った。たが、“落語への情熱”はずっと貫かれていたと思う。現在、島之内寄席はワッハ上方内のワッハホールが5upよしもとに変わったのを機にトリイホールに場所を移して毎月開かれている。
「島之内寄席」とは別に、大阪・吹田の千里セルシーホールで毎月27、28日に上方落語協会主催の「千里繁昌亭」が開かれていた。「繁盛」ではなく「繁昌」。「繁昌亭」という会の名は六代目松鶴師匠が命名したもので、「日を重ねて繁栄する」という願いが込められている。当時、「千里繁昌亭」は特別な会だったし、「27、28日は千里繁昌亭」を合言葉に私も大阪から吹田まで何度も足を運んだ。豪華なメンバーも出演していて楽しみな会だったが、大阪から少し離れているので、開演に間に合わないこともしばしばだった。その「千里繁昌亭」も幕を閉じた。松鶴師匠が牽引して続けてきた定席への道のりは険しいものだった。その姿を目の当たりにし、定席実現への思いを受け継いだ桂三枝上方落語協会会長や関係者の人々の努力と信念が多くの困難を乗り越え、天満天神繁昌亭という大きな花を咲かせたのだった。三枝会長がたびたび口にする「奇跡の寄席」と言う言葉にそれが表れていると思う。定席の名が「天満天神繁昌亭」と聞いて、多くの人が「千里繁昌亭」を思いだし、懐かしく思ったのではないだろうか。
天満天神繁昌亭の開席実現までの道のりは本当に険しいものだったと思う。繁昌亭設立の構想時から知る大阪商工会議所の堤成光さんが開席までのいきさつや繁昌亭のことを書き下ろした「奇跡の寄席 天満天神繁昌亭」を読むとその並々ならぬ苦労がしのばれる。三枝会長を始め、みなさんが開席に向けての資金繰りのために奔走されている姿も拝見していたし、クリアしないといけないさまざまなことも山積していたと思う。開席前の暑い夏の日、上方落語協会の方々が汗だくになって準備に追われていた姿も忘れられない。思っていた以上に早く実現したかのように思う人もいるかもしれないが、開席に至るまでの目に見えない苦労は想像を絶するものだったと思う。それだけに、定席実現の日は感極まった思いだっただろう。
開場1週間前の9月9、10日のプレオープン4公演を経て、落語の定席、天満天神繁昌亭は2006年9月15日にこけら落としを迎えた。遂にその“夢”がかなう日が来たのだった。その日は天神橋筋商店街の北詰、天神橋6丁目で午前9時半からセレモニーが行われ、そのあと天神橋筋商店街から天神橋2丁目にある天満天神繁昌亭まで華々しいお練りが行われた。三代目桂春団治師匠が乗った赤い人力車を三枝会長が車夫になって引き、そのあとを落語家やお囃子の山車が続いた。大阪市を南北に通る約2.6キロという日本一長い商店街を“夢の目的地”天満天神繁昌亭へ向けて練り歩いていく。途中で人力車のひき手や乗り手が順々に変わる姿が“上方落語”のバトンを渡すリレーのように思えて、胸が熱くなった。
三枝会長を始め、参加した落語家のみなさんはどんな思いで練り歩いていただろう。多くの報道陣がお練りに付き添い、沿道には人、人、人。たくさんの声援や歓声が続いていた。大きな期待を全身に受け、弾ける笑顔で目的地に向かって進んでいく姿が上方落語のこれからを映す象徴的なものに思えた。天神橋3丁目の和菓子店「薫々堂」の店頭には五代目桂文枝師匠の笑顔の写真が飾られ、それを見つけて立ち止まった三枝会長が涙ぐんだ姿に誰もがもらい泣きした。亡き師匠との予期せぬ出会いにそれまでの苦労を胸に秘め、ここまで突き進んできた緊張感が一気に解き放たれたのだろう。文枝師匠の笑顔は「ようやった」と褒めてくれているかのようだった。「薫々堂」のご主人は筋金入りの落語ファンだ。文枝師匠の写真の展示はこの日を待ちわびたご主人の繁昌亭開席を祝う何よりのプレゼントだった。長い道のりを一緒に歩いていた私は、心待ちにする商店街の人々の強いバックアップに頼もしさを感じ、改めて嬉しくなった。
繁昌亭のこと2011(2)
2011年11月4日 投稿者:日高 美恵 カテゴリ:らくごくら
2006年9月15日。天神橋筋商店街を練り歩く落語家さんたちと共に大阪天満宮に到着。祝典、祭典が執り行われたあと、天満宮を出ると目の前の天満天神繁昌亭の正面は詰めかけた人でぎっしりと埋め尽くされていた。これだけ多くの人がこの寄席を待ちわびていたのかと驚かされた。上方で落語の定席がなくなってからずいぶんと年月がたっている。寄席(定席)というものがどういうものか私も含め、まだ多くの人には実感がなかっただろう。詰めかけた人々の中にはこれからの上方落語に大きな期待を抱く人はもちろん、繁昌亭の開席で落語と言う未知の世界に興味を持つ人もいたし、繁昌亭を商店街の発展のための起爆剤にと思う人もいただろう。さまざま人のさまざまな思いが交錯し、夢があふれていた。
正午からこけら落とし公演がスタートし、9月24日までの10日間、一日3回の特別興行が行われた。東京からゲストを招き、記念口上が行われ、企画ものも行われた。この華々しいこけら落とし公演で私が感激したことの一つは上方落語協会に所属する落語家のほとんどがこの10日間に日替わりで出演したことだった。上方にこんなにたくさんの落語家がいるということのお披露目でもあったのだろうが、“夢”だった定席の舞台に全員が出演するというのはなんて素晴らしいことなんだろうと思った。新しい舞台に出て、上方の落語家ということを改めて誇りに思い、一体感を味わったのではないだろうか。そして、その感激に加え、満員の客席を前に落語家として心新たに思うものがあったのではないだろうか。
松鶴師匠が「寄席はみなでひとつや」とおっしゃっていたという。これはいくつもの落語が続く寄席や落語会ではネタも含め、まわりのことも考えて演じ、トリに出演する人に向けて、心を一つにし、一つの興行をみんなで一緒に創り上げようということなのだろうが、このこけら落とし興行を見ていて、ふとその言葉が浮かんできた。ここはみんなの舞台、全員で創り上げる寄席。また、違った「みなでひとつ」。改めてその言葉を噛みしめる思いがした。
15日の開席初日から繁昌亭では連日大入りが続いた。繁昌亭ができる前は、「平日のその時間帯にお客さんが来るのだろうか?」と不安に思う声も内外から多く聞かれた。確かにそうだろう。開演は午後1時。一般の人は仕事をしている時間だ。それに落語の定席がない時期が長く、東京と違って寄席で落語を聞く習慣がないというのも心配の種の一つだった。オープン当初は落語8席と漫才などの色物が2組。もちろん、いろいろなタイプの落語があるし、お客さんを楽しませるために演者も全力投球するだろうが、誰もが未知の世界に足を踏み入れるような思いだったと思う。だが、それも杞憂に終わり、繁昌亭のチケットは地元の天神橋筋商店街の人さえ手に入れるのが難しいプラチナチケットになっていた。
何事も始まったばかりの時は万全ではない。思いもよらないことだって起きる。いくつもの難題を乗り越え、試行錯誤しながら手探りで進化していく。スタートしたばかりの繁昌亭も同じことが言えたと思う。開席から大盛況が続く幸せな船出だったが、何をするのも初めてのことで、トラブルだってたくさんあったと思う。目に見えない苦労や尽力も半端ではなかっただろう。だが、「もっとこうした方が」という要望に柔軟に、そして即座に対応する様子は見ていてすごいと思ったし、落語家さんはもちろんのこと、スタッフの真摯な想いがないと実現しえなかったと思う。そんな一つ一つの積み重ねがあって、今に至っている。
東京の寄席は10日ごとに出演者が変わるが、繁昌亭は1週間単位で出演者が変わる。大きな落語会はともかく、それまで勉強会などは同じ一門か同じ事務所の者同士、または同期のメンバーが集まって開いていた。それに比べ、繁昌亭では上方落語協会所属の落語家全員から出演者が選ばれていて、ほかの落語会とは違う感じの新鮮な顔合わせを見ることができる。落語家さん自身からも「あの人とは20年ぶりに会ったわ」とか「一緒の会に出るのは初めてや」という声をよく耳にした。それに色物として出演する漫才やマジック、太神楽の人たちと初めて共演する人も多かったと思う。舞台も新鮮だったろうが、楽屋もまた新鮮だったろう。
繁昌亭の楽屋は一つなので大師匠から若手までが集い、舞台のモニターを見たり、話に花を咲かせたりと和気あいあいの雰囲気だ。若手の落語家が交代で楽屋番をつとめ、忙しく立ち働いている。若手の落語家にとっては作法を始め、昔話や芸談、ネタの話など勉強になることがたくさんあると思う。普段は挨拶程度の付き合いの人だったが、楽屋で話して親しくなったという人たちもいる。開席当初は昼席を終えて午後4時半ごろから出番のメンバーで連日打ち上げをしていた。繁昌亭近くの居酒屋では落語家のために営業時間を繰り上げたところもあった。懇親の日々は新しいつながりを生んだだろう。
繁昌亭で共演したことがきっかけとなって、繁昌亭以外で開いている自身の落語会に出てもらうようになったという話も多い。それまで、だいたい固定だった地域寄席のメンバーのカラーがここ数年、少し変わってきているのは“繁昌亭つながり”の恩恵だろう。地域寄席などのお客さんも新しい顔に出会えるし、その落語家さんを目当てにその寄席に足を運ぶ新規のお客さんだって増える。ずっと地元で続けていた寄席のスペシャル版が繁昌亭で開かれることもある。繁昌亭に行くきっかけを失っていた地元のお客さんも繁昌亭を訪れる絶好の機会になる。色物の芸人さんたちの落語会出演も増え、そのつながりで落語会以外の演芸やライブに出演するようになった落語家さんもいる。繁昌亭効果はほかの落語会にも波及しているのだ。
繁昌亭のこと2011(3)
2011年11月4日 投稿者:日高 美恵 カテゴリ:らくごくら
変わってきたのは人のつながりばかりではないと思う。ネタ自体も変化してきている。戦後、落語家の数が激減し、危機感を持った上方落語の四天王はネタ数を増やすためにそれぞれ別の師匠に別のネタを習いに通ったそうだ。そして、「ネタを増やすためには定席が必要だ」ということを松鶴師匠がおっしゃっていたそうだ。続けて寄席を訪れるお客さんがいることを思えば、1週間同じネタを演じることはできない。繁昌亭の場合、全員の高座が放送されるわけではないが、インターネットで昼席を楽しめる「ライブ繁昌亭」の放映があり、連日見ている人がいる。同じ演者の同じネタでも日によって演じ方が違うだろうが、見る側はやはり違うネタを望む。また、演者が違うと言っても、毎日同じ演目が出るより、違うネタを見たいと思うだろう。持ちネタの少ない人はネタの開拓が必至となるし、持ちネタに自分の個性を入れて唯一無二のオリジナルバージョンに磨きをかけている人もいる。また、連日高座に上がることでネタも日々、進化していく。
落語のネタには“お家芸”と呼ばれてその一門のみが演じるネタがある。戦後、落語家が激減した時にはネタ数を増やすために東奔西走し、一門以外の師匠のところにも習いに行っていたので、“お家芸”でもほかの一門が演じるようになったネタも多いが、「これは笑福亭のネタやから」とか「米朝系のネタで」などの言葉を聞くと、伝統やネタのルーツになるほどと感慨深く思うことがある。一門でネタを囲い込んでしまうと演じる人がいなくなり、滅んでしまうという危惧もあったのだろう。今は一門を越え、ネタが幅広く演じられることが多くなったように思う。
“お家芸”とは別に、あまりにも素晴らしく、ほかの人が演じるのがはばかられるネタもある。落語会ではネタがかぶるのを避けるために、趣向の会をのぞけば、必ず別の種類のネタを演じるというルールがある。旅ネタが出たらそのあとに出る人は旅ネタをしないし、丁稚が出てくるネタが出ればもう丁稚の出るネタはできない。また、同じような展開のネタはしないなど演者が増えれば増えるほど後に出る人の演じるネタは限られてくる。寄席ではあらかじめネタ出しをしないので、トリの人は自分より前に出る人が演じたネタ以外の噺をしないといけない。ネタ数に加えてネタの種類の多さが求められるのだ。また、前に出る人は、後にでる先輩の十八番ネタやその日に演じるネタにかぶらないネタを演じる配慮が必要となってくる。持ちネタの少ない若手たちは新しいネタの稽古に熱心だ。その成果は舞台で現れていて、実践の大事さを痛感する。
「ちりとてちん」や「タイガー&ドラゴン」などの一連のドラマや映画の人気と繁昌亭の開席がちょうど重なって、上方にも“落語ブーム”が訪れた。繁昌亭は大入り続きで落語会も増え、入門者も増えた。最初はこのネタ、それができるようになったらこのネタ、というようにネタの稽古にもステップがあって、それを飛ばして一気に大ネタに挑むとほころびが見える。何事も基礎が大事ということだろう。新しいネタを必要とするのは若手だけでないが、ネタ数を増やしたいと願う若手は師匠や兄弟子以外にほかの一門の先輩のところにも足しげく稽古に通っている。「この噺はこの人」という十八番ネタを見聞きして、積極的に習いに行っている姿に感心することもしばしばだ。当初は演じ方や流れを習った通りにするので「これはあの師匠につけてもらったネタやな」というのが見ていてわかる。だが、しばらくするとそこに自分なりの工夫を加えていたりして、ネタを自分の手元に引き寄せていく姿は立派だなと思う。だが、「この噺はこの人!」というネタで、長くほかの人が演じない噺を若手の人が演じる姿に遭遇すると時代は変わってきたんだとしみじみ思う。
必要に迫られてということもあるだろうが、先輩たちの下に稽古に通う若手落語家の姿を見ていると、受け入れてくれる先輩がたに恵まれていると思う。かなりの若手でも春団治師匠や大御所の師匠連に稽古をお願いしている。稽古をつけることは時間的にも体力的にもたいへんだろうが、師匠連も嫌がることなく応じていらっしゃる。同年代の者が行くと聞けば、自分もと克己することもあるだろう。繁昌亭でいろんな一門の落語家の高座を自分の目で見て幅広くネタを知り、本人にお願いして習うことができるというのも繁昌亭効果の一つではないかと思う。普通は習う師匠や先輩の自宅に稽古に通うのだが、昼席の前に舞台上や近くに上方落語協会が借りている部屋で稽古をつけてもらうことも多い。稽古の後にそのお宅で芸談や一献という楽しみはないが、効率のよい新しい姿だろう。
ネタの開拓は古典落語ばかりではない。落語が並ぶ昼席では古典落語に混じって新作落語が演じられることも多い。新作だと空気も変わるし、その人オリジナルの作品ならほとんどほかの演者のネタとかぶらないからだ。新作は昔から作られてきていて今や古典となっているものもあるし、少し前の時代を舞台に作られた“新古典”と言われる噺や演じられなくなった噺を蘇えらせた復活ネタもある。三枝会長の新作はいつの時代にも受け入れられる普遍的な作品で、繁昌亭だけでなく東西の落語家が多く演じる人気作となっている。古典落語を今風に改作して演じる人もいるし、自分で新作を次々生み出す若手も増えている。ネタ数だけではない中身や幅の広がりも見逃せないところだろう。


