最新記事
「人」と「場」のつながり(3)
2012年4月19日 投稿者:日高 美恵 カテゴリ:らくごくら
1996年、大阪の千日前にオープンした大阪府立上方演芸資料館(ワッハ上方)にはワッハホールと小演芸場、レッスンルームという3つのスペースがある。4階の小演芸場は可動椅子でだいたい70名から80名くらいが入る寄席小屋タイプ、5階のワッハホールは固定席で307席、7階のレッスンルームはフラットなスペースで100名くらいが入場できる広さだ。目的に応じて独演会や勉強会、演劇公演などが開かれていて、どこも借りるのに争奪戦となる人気を誇っていた。だが、ワッハホールは2010年12月26日に閉館となり、地下にあった吉本の若手の小屋「ベースよしもと」が移転し、2011年の元旦に「5upよしもと」として再オープンした。
事情により3つのスペースとも一時使用できなくなった時は、ここに代わるスペースがなく、みんな会場探しに奔走した。次の会場を見つけることができずに断念を余儀なくされた会もあった。小演芸場とレッスンルームは再び使用できるようになったが、独演会などにうってつけの広さのワッハホールは一般には貸し出しされなくなった。2006年にオープンした天満天神繁昌亭に独演会の場を移した人もいるが、ワッハホールより客席数が少ないため、ワッハホールと同じかそれ以上のキャパの小屋を必要とする人々の会場探しの旅は今も続いている。
今、大阪ミナミで一番落語会が活発なのはトリイホールだ。1991年にオープンして以降レギュラーの落語会に加え、東西の落語家のジョイントや珍しい顔合わせのコラボ企画などを次々と実現させている。東京の人気落語家の独演会も多く開かれているし、上方の大御所もここでネタおろしの会を開いている。約100席のスペースで身近に落語を楽しめるのは何とも贅沢な喜びだ。
ここは粋人として知られ、多方面で活躍していた上方藤四郎こと鳥居鉄三郎さん夫妻が経営し、名だたる歌舞伎役者や芸人たちが定宿としていた旅館「上方」があった所。ご夫妻の死後、旅館は廃業となったが、常連だった桂米朝師匠の言葉に押され、サラリーマンを辞めた子息の鳥居学さんが1991年に複合ビルを建設し、4、5階部分にホールを造った。「ミナミに演芸の灯を!」という熱い想いを持つ鳥居さんは集客の厳しい会でもNOを突き付けない懐の深さで上方の演芸を見守り続けている。鳥居さんは「場」の大切さを知り、「やりたい」という演者の思いを真正面から受け止めている。落語会が始まる前に劇場や寄席がなくなったミナミの現状を観客の前で切々と語る鳥居さんの心の熱さにはいつも感動させられる。
昼は落語の定席、夜は貸し小屋として連日落語会が開かれている天満天神繁昌亭の誕生が落語人気の一翼を担っているし、ワッハ上方、トリイホールでの落語会も多く開かれている。人気落語家が複数出演する「競演会」やスペシャルな「独演会」は繁昌亭に加え、ホールが会場となる「ホール落語会」が担っている。だが、レギュラーの勉強会や落語会、寄席など実際に人前で演じることの積み重ねがあってこそ“特別な会”が花開く。大きなスペースはなくなりつつあるが研鑽を積むスペースは健在だし、落語家が増え、競争が激しさを増す中、その存在は重要なものになっている。
大阪の鶴橋駅のすぐ近くにあるスペース「雀のおやど」は2003年3月30日の雀三郎さんの誕生日に雀三郎さんにプレゼントされた寄席小屋だ。中は縦長のこじんまりしたスペースで、高座などは雀三郎さんの要望にそって造られた。現在、ここでは雀三郎一門以外に、ほかの一門や講談師の会も数多く開かれているし、落語や鳴り物の稽古などにも使われている。世話役をされている方々の細かい心配りと愛情を大きな支えに、なくてはならない貴重なスペースになっている。
トリイホール階下の鯨料理店「徳家」の座敷でも落語会が開かれている。店内は障子で仕切った小部屋が四方をぐるりと囲み、真ん中に畳敷きのスペースがあるアイランドタイプで、その小部屋のひとつの障子をあけて舞台にし、真ん中の畳敷きのスペースに観客が座るスタイルを取っている。普段は料理店だが、会がある時は「徳徳亭」という寄席小屋に早変わりするわけだ。ここはキャパが40名ほどのスペースで、演者と観客の距離の近さがぐっと親近感を引き寄せる。落語会の運営はトリイホールが行っていて、同じ日にトリイホールと徳徳亭の両方で会が開かれるのを見ると、ちょっと嬉しい気分になる。
桂ざこばさんが大阪の動物園前に開いた寄席小屋が「動楽亭」。場所は以前、落語の勉強会用にと実家の2階で開いていたスペース「軽井沢亭」のすぐそばだ。約100名のキャパで、今はひと月に20日間の昼の定席が開かれている。1~10日は米朝一門のみ、11~20日は一門を越えたメンバー6名が連日出演。繁昌亭とは違い、ここは落語オンリーの会になっている。夜は貸し小屋として、落語や講談、浪曲などの勉強会が開かれている。
月亭八方さんが2009年の秋、地元の大阪・福島に稽古場として作ったのが「八聖亭」だ。福島・“聖”天通りに面した“八”方の小屋ということで「八聖亭」と名付けられた。八方さんはほぼ毎月、ここで自分の会を開いてネタおろしに挑んでいるし、広く若手の勉強会にも活用されている。「地元に文化を根付かせたい」という八方さんの思いから、落語会や稽古以外にも踊りなどの貸し教室として使用されている。
五代目文枝師匠の縁で文枝一門が中心になって落語会を開いている大阪・高津神社参集殿の「高津の富亭」、六代目松鶴が住んでいた家を改築して作られた「無学」、そして道頓堀で活発に会を始めている「道頓堀ZAZA」など勉強会が開かれているスペースはほかにもある。ブームに甘んじることなく、多くの中堅・若手が来るべく大きな舞台に臨むために基礎固めの場で日々腕を磨いている。
“場”の存在の重要さに加え、その場を活用したり、新しく開拓していく演者の志がきっと大切なのだろう。“場”は人とのつながりの「場」でもある。そこで生で見る、直に会う、話す。お客さんや世話役の人、ほかの演者とのつながりがまた別のつながりに結びついていく。オレンジルームやOMS、そして繁昌亭の誕生などで芽生えた横と横の幅広いつながり、そしてさまざまな場での出会いは人と人だけではなく、心と心を結び、成長を続けながら将来へつながっていくのだと思う。
「人」と「場」のつながり(2)
2012年4月19日 投稿者:日高 美恵 カテゴリ:らくごくら
今は全国を飛び回って活躍されている元OMSの敏腕プロデューサー、津村卓さんの努力も大きかったし、OMSや津村さんを取り巻くまわりの環境も懐の深いものがあった。もちろん開拓の道は厳しく、次々とトラブルも起こっていたし、津村さんの苦労も生半可なものではなかったと思う。私も準備や練習風景などを見る中で、前へ前へとすごいスピードで進んでいく時代の流れを感じていた。みんな、お金はなかったけど夢があった。稽古をするために人が集まっていたが、稽古がない時もいつもそこに人がいた。OMSは単に表現の場というだけでなく、人々が交流し、共に成長していく場でもあった。OMSがなかったら、オレンジルームがなかったら、今はどうなっていただろうとしばしば思う。
普段は映画の上映会などをしていたスペース「コロキューム」では1986年5月から桂雀三郎さん主宰の落語会「雀三製(じゃくさんせい)アルカリ落語の会」が開かれていた。この会では雀三郎さんが新作落語に挑み、毎回さまざまなジャンルのゲストが登場するスタイルをとっていた。当時、情報誌の演劇・演芸担当だった私もプロデューサーのYさんに声をかけていただいて、初期の頃に少しお手伝いで参加していた。当日の設営などの準備や手伝いに加え、普段はお勤めをされているYさんに代わって、会のPRのための放送局まわりを手伝ったり、知人や友人に会へのゲスト出演を依頼したりしていた。
立場上、平素はどこかの会の手伝いをするということはなかったのだが、この会だけは特別だった。私だけでなく、手伝いで参加しているメンバーはみんなそれぞれの仕事の枠を越えて自分のできることで協力していた。普通はありえないことだが、別の情報誌の演芸担当の人と私が一緒にPRで回り、放送局の人に驚かれたこともある。Yさんの奥さんが絵本作家の長谷川義史さんのお姉さんと言うこともあり、長谷川さんが会のチラシ全般を担当していた。当時、古典落語の巧さでは定評のあった雀三郎さんが新作に挑むというのも魅力的だったし、新しく始まる会の可能性に賭けてみたいという思いもあった。そして、何より「おもしろそうなので参加しよう」という思いがみんなの心にあったのだろう。
当時、前髪にパーマをあて、先代の林家三平さんのようなヘアスタイルにしていた雀三郎さんは額の所にこぶしをあてる三平さんのおなじみのポーズで笑いを誘う「三平落語」を演じるなどさまざまなチャレンジを続けていた。音楽のプロモーションビデオのスタイルで会のプロモーションビデオも作ったし、後にこの会の歌や映画も製作された。何が起こるかわからないところがこの会の魅力だった。雀三郎さんもスタッフも、そしてお客さんも毎回ワクワクしていたし、みんな弾けていた。
Yさんがまわりのメンバーの友人関係を頼りに招いたゲストはかなり豪華なラインナップだった。中島らもさん、麿赤児さん、南河内万歳一座の内藤裕敬さん、赤井英和さん、劇団☆新感線の古田新太さんなどなど毎回錚々たるメンバーが出演し、雀三郎さんとトークを繰り広げた。出演するゲストへの応対もたいへんだっただろう。落語の勉強会ではあるが、内容的には毎回色合いの違う特別な会だったと思う。その後、1993年の4月に幕を閉じるまで、のびのびとした姿勢で会は続いた。この会で誕生したたくさんの新作落語は今も演じられているし、多くの人々との出会いは雀三郎さんにとって素敵な宝物になっただろう。今も雀三郎さんと話していると“アルカリの時代”の話になることがある。みんな若くもあったが、きらきら輝く素敵な時代だった。
OMSと同じ年に上本町にオープンしたのが近鉄劇場だった。1階部分は954席の大劇場、地下には420席の小劇場があり、コンサートや商業演劇、東西の人気劇団が公演を行っていた。近鉄劇場と近鉄劇場より小さいOMS。この二つの大きな柱にほかのスペースも加わって、当時の関西の演劇界はめまぐるしく変わって行ったし、それに並行して落語会も開かれていた。だが恵まれた時代は長くは続かなかった。大阪・天王寺の近鉄百貨店9階にあった劇場「近鉄アート館」(328席)が2002年に閉館。ビルの老朽化でOMSの閉館が発表され、2か月にわたる華々しいクロージングイベントが開催されたあと、2003年3月16日にOMSは幕を閉じた。そして、2004年2月4日には近鉄劇場も閉館となった。
かつて芝居小屋や演芸場が並び、にぎわいを見せた道頓堀のおもかげも今はもうない。歌舞伎や文楽、芝居、お笑いなど上方の芸能でミナミの街が栄えた、そんな古きよき時代があったことさえ知らない若者も多いだろう。「道頓堀五座」として栄えた浪花座、中座、角座、朝日座、弁天座もそれぞれの歴史に幕を下ろした。2004年に、廃校になった難波の大阪市立精華小学校の講堂が精華小劇場としてオープン。演劇や落語会などが行われていたが、2011年の3月31日に閉館となった。大阪・新歌舞伎座は上本町のビルの中に移転した。劇場や小屋には魂が宿っているという。いったんなくした場を蘇らせるのはなかなか難しい。
「人」と「場」のつながり(1)
2012年4月19日 投稿者:日高 美恵 カテゴリ:らくごくら
不景気もあいまって、大阪では劇場や小屋が次々と姿を消している。観客や演者の人口が大きく違うとは言え、東京へ行くたびに劇場や小屋の数の多さや質の高さをうらやましく思う。スペースや集客の関係で、もう大阪では公演を行わないところも増えてきた。表現の場が増えれば、競争と修練で内容の向上にもつながるだろうし、観客も多くの中から選択し、眼福の歓びや見る目を養う好機を得る。質の高さを保ちながら文化を守り、長く存続させていくためには観客が見て接する機会が多いことは必要不可欠なことのひとつだと思う。
かつて、大阪・梅田にオレンジルームというスペースがあった。もとはボーリング場だったスペースをホールにし、1978年のオープン以降、演劇や音楽ライブなどでにぎわった。場所は梅田のど真ん中。若者が集まるファッションビル「阪急ファイブ」の8階にあるというのが何よりおしゃれで魅力的だったし、中島陸郎さんという演劇の名プロデューサーの尽力も大きな吸引力になっていた。
中島さんは連日のようにいろいろな劇団の公演に足しげく通い、自分の目で見極めた劇団にオレンジルームへの出演依頼の声かけをしていた。私も京都や神戸の小さなスペースで中島さんにお会いし、ここまで見に来られているのかと驚いたことがしばしばあった。残念ながら中島さんは病に倒れられたが、追悼の会には全国からたくさんの演劇人が駆けつけた。その顔ぶれを見て、改めて中島さんの偉大さを再認したし、亡くなられたことを本当に残念に思った。
オレンジルームのオープン当初は関西でも学生演劇がブームとなり始めた頃で、ブームを牽引していた大阪芸術大学の劇団☆新感線や南河内万歳一座、京都大学の劇団そとばこまちといった学生劇団がここを舞台にしのぎを削り、熱狂的なファンが多く詰めかけた。当時は若いエネルギーに満ちたとても熱い時代だった。定期的に開かれていた「オレンジ演劇祭」に出場することが栄誉とされ、若手劇団にとってオレンジルームは「学生演劇の甲子園」といった感じの憧れの場所だった。主宰者の大学卒業と同時に学生劇団の枠を卒業しても、引き続きオレンジルームで公演が行われていた。当時、人気急上昇中だった若手漫才師のダウンタウンが劇団☆新感線と競演するといった、今考えてもワクワクするような夢のコラボもここで行われた。
オレンジルームでは演劇や音楽のライブ、講演会などのほかに、米朝一門が出演する「おれんじ寄席」や「オレンジ講談」などの演芸会も開かれていた。当時のパンフレットを見直してみると亡くなられた桂枝雀師匠を始め、そうそうたるメンバーの名前が並んでいる。ここでは「おれんじ寄席」以外にも落語会が開かれていたし、同じフロアにあった別のスタジオでも笑福亭の落語家の勉強会などが開かれていた。ビルの改築でいったん幕を閉じたオレンジルームはHEPホールとしてリニューアルして再び活動を始めた。一時、新作落語の会の「新世紀落語の会」や東京の春風亭昇太さんの独演会などが開かれていたが、今はここで落語会が開かれることはなくなってしまった。
思い返すと、オレンジルームは演劇、音楽、古典芸能や講演会などあらゆるジャンルの文化が毎月、同じ立ち位置、同じ目線で演じられていた画期的な空間だった。当時は当たり前のようにその恩恵に浴していたが、今、考えると本当にぜいたくなことだったと思う。それぞれのジャンルの文化が同じ歩幅で歩んでいたからこそ、互いに刺激を受け、融合し、あの爆発的なエネルギーを生んだのだと思う。観客はオレンジルームに行けば、さまざまな文化に接することができたし、そこで自分が見つけた世界に飛び込んだ人もたくさんいた。オレンジルームで培われた若者を中心にした文化はその後、広く遠く波及していった。
1985年は大阪の文化にとって一つのエポックメイキングな年だったと思う。この年の3月に大阪市北区の扇町にあった大阪ガスの北支社ビルが改築され、扇町ミュージアムスクエア(OMS)が誕生した。ここの1階部分にはフォーラムと呼ばれる小劇場と映画の上映や落語会などのイベントが行われるフォーラムより少し小さめのコロキューム、雑貨店のスーベニール、ギャラリー、そしてレストランの「スタッフ」があった。フォーラムでは主に演劇公演が行われ、劇団「青い鳥」を皮切りに、それまで関西で公演の機会がなかった東京の人気劇団が続々と来阪するようになった。
フォーラムはフラットなスペースだったので、可動式の椅子を置いたり、桟敷席にするなど自由に使えたのだが、悩みの種があった。改築されたスペースなので空間内の大きな二本の柱を取りはらうことができず、それが公演のたびにネックになっていた。大きな二本の柱があるという前提で、観客の視界を阻まないようにどう客席部分を工夫するのか、舞台をどこに作るかにそれぞれの劇団は頭を悩ませていた。柱を逆手にとって効果的にセットの一部として使っていた公演もあったが、一人でも多くの観客を入れたい劇団側は創意工夫に直面していた。
当時はまだ演劇ブームが続いていて、客席が桟敷の時は「みなさん、まだ外にお客さんがたくさんいらっしゃいます。掛け声とともに少しずつ前へ詰めてください! せーのー、ヨイショ!!」という劇団員の声に合わせて観客がスペースをあける「膝送り」が恒例となっていた。「これでもか!」というくらいギュウギュウ詰めに座って見る窮屈さよりも客席の一体感、そして幕が上がる前の高揚感の方が勝り、会場はいつもワクワクする空気に包まれた。
つかこうへいブームや学生演劇ブームを経て高まっていた関西の演劇人気は東京の刺激的な劇団が来阪することでますます拍車がかかっていった。この建物の2階部分には大学を卒業し、学生劇団ではなくなった南河内万歳一座と劇団☆新感線が稽古場を構えていた。劇場と稽古場が直結していることは何より効率的だったし、彼らはフォーラムで上演するほかの劇団のサポートも行っていた。商業演劇はそれまでも大阪で観ることはできたが、東京に通わないと見ることができなかった小劇場の芝居を大阪で直に見られるようになったことは画期的なことだった。
新人賞あれこれ(2)
2012年3月9日 投稿者:日高 美恵 カテゴリ:らくごくら
2011年に入り、1月11日に文化庁の芸術祭賞が発表された。文化庁芸術祭は「広く一般に優れた芸術の鑑賞の機会を提供するとともに,芸術の創造とその発展を図り,もって我が国芸術文化の振興に資することを目的として昭和21年以来毎年秋に開催される芸術の祭典」と定義されている。平成23年度で66回を数え、“国内で開催される芸術のお祭り”として文化庁の主催公演や協賛公演に加え、参加公演(テレビなどは参加作品)があり、毎年“芸術の秋”を彩っている。主催、協賛、参加公演の開催地は主に東京を中心とした関東圏と大阪を中心とした関西圏だ。
そして、この芸術祭の参加公演の中から「演劇」、「音楽」、「舞踊」、「大衆芸能」の部門で審査員が芸術祭大賞,芸術祭優秀賞,芸術祭新人賞の各賞を選考し、受賞者には文部科学大臣から文部科学大臣賞として賞状とトロフィー、賞金が贈られている。58回となる平成15年度からは関西参加作品、関東参加作品に分けられて、それぞれ受賞者が選ばれるようになった。芸術祭開催中の期間には参加公演として多くの落語会が開かれていて、毎年秋は落語会ラッシュのシーズンだ。一日にいくつもの落語会がノミネートされていて、審査員の方々が忙しく移動されている姿をしばしば拝見する。
平成23年度の大衆芸能部門新人賞には桂吉朝門下の桂佐ん吉さんが選ばれた。
(優秀賞は桂枝雀一門の桂雀松さんが受賞) 佐ん吉さんは吉朝さんに2001年に入門した6番弟子だ。積極的に自主公演を開催するなど研鑽を積んでいる佐ん吉さんは明るい高座がキュートな今、勢いのある若手落語家の一人として注目を集めている。
芸術祭賞の発表の5日後の1月16日に繁昌亭の夜席で「第49回なにわ芸術祭」の落語部門の新人賞を選出する「新進落語家競演会」が開催された。「なにわ芸術祭」は春に開催される関西の舞台芸術の祭典で、落語や音楽、舞踊などの5部門で新人賞を設けている。「新進落語家競演会」は上方落語協会が主催する月例の「島之内寄席」に出演し、協会から推薦を受けた協会所属で入門10年前後の落語家8名が出演し、観客の前で競い合う。新人賞と新人奨励賞が審査員によって選出され、新人賞に選出された落語家には春に開かれるなにわ芸術祭の「上方落語名人会」への出場権が与えられる。
今年は新人賞に桂吉坊さん、新人奨励賞に林家卯三郎さんが選出された。この会は事前にネタ出しをしていない上、出演順が当日のくじ引きで決められる。それぞれの持ち時間は12分だ。コンクールなので、ほかの人との調和をとってネタを選んでいる場合ではなく、みんな真剣勝負で挑むのだが、前に出る人が何をするのかわからないし、自分が予定していたネタを先に演じられてしまう可能性もある。同じネタでなくても、似たようなネタが出る可能性も大だ。土壇場で急遽ネタを変える臨機応変さも必要になってくる。
この会は観客の前で公開されるのだが、結果は会の終了後に審査員が選考し、打ち上げ中の出演者のもとに電話で連絡が入るシステムになっている。ドキドキしながらライバルたちと打ち上げの場で待つと言うのはどんな心境だろう。翌日のサンケイ新聞の朝刊で結果が発表されるので、一般の人はそこで初めて誰が選ばれたかを知ることになる。最近はツイッターやブログなどでその日のうちに結果を知る人もいるだろう。師匠の吉朝さんの七回忌を迎えた今年度、よね吉さん、吉坊さん、佐ん吉さんの受賞が続き、吉朝さん亡き後の一門の活躍を改めて感じた。照れ笑いする吉朝さんの姿が眼に浮かぶようだ。
昨年2月から天満天神繁昌亭を舞台にスタートしたのが「繁昌亭ドリームジャンボコンテスト」だ。これは上方落語協会所属の落語家で編成された企画委員のアイデアで実現したもので、毎月、エントリーした入門3~15年の若手落語家が観客の前で競い合い、当日の観客の投票でチャンピオンを決定する客席参加型のコンテストだ。毎回満席が続けば、賞金総額は300万円にのぼる予定でスタートし、一攫千金を狙おうと毎回激しいバトルが続いた。
昨年12月26日には2月から11月までの月間チャンピオンが競い合うグランドチャンピオン大会が開かれ、経費をのぞいた売り上げのすべてがその日、グランドチャンピオンに選ばれた林家染太さんに贈られた。企画委員長の桂小枝さんが言うように「飛び道具が出てもいい一発勝負の会」で、賞金争奪戦の緊張感にあふれていた。染太さんには賞金の337、474円と小枝さん手作りの優勝カップ「小枝杯」が贈られた。入場者数の少ない会もあり、賞金額は当初の思惑通りにはならなかったが、協会所属の若手でキャリアさえ条件に合えば誰でもエントリーできるチャンスが与えられ、観客も贔屓の落語家の健闘をダイレクトに応援できる一味違うコンテストの誕生となった。2012年度は3月からスタートし、9月までの7戦に加え、10月には敗者復活戦も登場。12月のグランドチャンピオン大会まで熱い戦いが繰り広げられる。
また、「繁昌亭ドリームジャンボコンテスト」に対抗し、「若手ばかりではなく我々にも!」と名乗りを上げた入門25~40年のキャリアの落語家が競う「ドリームジャンボコンテスト」が1月13日に開催された。当日の抽選で出演順を決め、観客の投票で勝者が決まるルールは若手のコンテストと同様で、当日の勝者には経費を引いた売り上げのすべてが贈られた。福郎さん、鶴志さん、枝鶴さん、一蝶さん、九雀さん、三歩さん、円笑さん、坊枝さん、三喬さん、小染さんといった錚々たる10名のメンバーがエントリーし、持ち時間15分で競い合ったが、若手の時とは違い、遊び心も余裕もある楽しい競演の会となった。一日限定のこの会では桂坊枝さんが優勝。賞金と手作りの小枝カップが贈呈された。
受賞は励みにもなるだろうし、勲章にもなるだろう。贔屓にしている人が受賞すればファンも嬉しい。だが、実力がありながらチャンスに恵まれない人もいるし、受賞だけが物差しにはならない。「無冠」であっても素晴らしい人もいる。ただ、受賞を機に大きく飛躍していく人も多いし、次への足掛かりにもなるだろう。受賞をバネにこれからどう歩んでいくか。それを楽しみに長く見届けていきたいと思う。
新人賞あれこれ(1)
2012年3月9日 投稿者:日高 美恵 カテゴリ:らくごくら
毎年10月頃から翌年の年明けにかけては多くの新人賞が発表される時期だ。NHK新人演芸大賞を皮切りに、咲くやこの花賞、文化庁の芸術祭賞や「なにわ芸術祭」落語部門の新人賞などが決まり、一喜一憂が続く。繁昌亭大賞も毎年11月に選考があり、今回も各賞の受賞者が選ばれた。賞と言ってもガチンコのコンテスト形式のものから、日々の積み重ねが認められるものまでスタイルもさまざま。主催者も文化庁や大阪市といった公の機関や放送局、新聞社など多岐にわたっている。
NHK新人演芸大賞は1991年に「NHK新人演芸コンクール」から名称変更されたもので、1994年からは演芸部門と落語部門に分けて選考されている。東西の落語家がエントリーし、予選を勝ち上がった5人で競う形をとっている。コンクールは東京と大阪の会場で毎年交互に開かれ、大勢の観客が見守る中、審査員が選考する。平成23年度の落語部門には東西で82名が予選に参加。今回、上方からは桂まん我さんと桂ひろばさんが本選の5人の中に残った。2011年10月15日にNHK大阪ホールで本選が開かれ、まん我さんが栄冠を勝ち取った。
まん我さんは1999年に桂文我さんに入門。大阪や東京以外でも会を開いて腕を磨き、メキメキと頭角を現してきている実力派だ。まん我さんにとっては今回が3度目の挑戦となり、かなり気合も入っていた。コンクールの前に会った時に「三十石」でコンクールに挑むというのを聞いて驚いた。「三十石」と言えば、たっぷり演じれば1時間ほどかかる大ネタだ。それをまん我さんはコンクール用に11分にまとめあげ、見事に演じていた。師匠の文我さんは予定より早く仕事が終わった足で急遽会場に駆けつけ、そっと愛弟子の優勝を見守ったそうだ。このコンクールの模様はNHKで録画放送される。ライブではないので、すべてが放送されるわけではないが、広い地域の幅広い層の人に見てもらえるというのは魅力だろう。放送時、エンディングにかけての盛り上がりも感動的で、見ていて胸が熱くなった。まん我さんは受賞した「三十石」のフルバージョンを引っさげ、3月から受賞記念の全国ツアーをスタートさせた。
2011年11月24日には「咲くやこの花賞」が発表された。「咲くやこの花賞」は「創造的な芸術活動を通じて大阪文化の振興に貢献し、かつ将来の大阪文化を担うべき人材(個人または団体)に対し、一層の飛躍の期待を込めて大阪市が昭和58年より贈呈している賞」とされている。賞の対象は「美術」「音楽」「演劇・舞踊」「大衆芸能」「文芸その他」の5部門。「おおむね40歳以下の人に贈られる」ということで受賞者は30歳代が多いが、今年は上方歌舞伎の中村壱太郎さんが21歳で受賞している。
「大衆芸能」部門では桂吉坊さんが受賞。吉坊さんは亡くなった桂吉朝さんの5番弟子で1999年の入門。桂まん我さんとは同期で、まん我さんも3年前にこの賞を受賞している。吉坊さんは「いくつやねん!」と思わず突っ込みたくなるほど古典芸能全般に精通し、落語への取り組みもとても真摯だ。愛くるしい笑顔を浮かべながら東西を股にかけて活躍を続けている。この賞の受賞者は今年度で145組を数えるというが、歴代の受賞者を見るとそうそうたる顔ぶれが並び、大阪文化の層の厚さ、才能の輩出を改めて感じる。
そして、「咲くやこの花賞」の発表と同じ日に繁昌亭大賞の各賞も決定した。繁昌亭大賞は繁昌亭ができたのを機に2007年に設立された賞で、繁昌亭を舞台に活躍する入門25年以下の上方落語協会所属の落語家の中から選ばれる。賞は大賞、大賞に次ぐ奨励賞、爆笑賞、創作賞、新人賞となる輝き賞の5部門で、輝き賞のみ入門10年以下、輝き賞以外は入門25年以下の落語家が対象となる。一年を通して繁昌亭の昼席や繁昌亭主催の夜席を見たマスコミを中心とした審査員の合議で受賞者が選ばれる。最初の年のみ年に2度だったが、2年目以降は年に1度の選考となった。
この賞は前座、二つ目、真打と順にステップアップしていく東京の落語界のような「真打制度」がない上方で、若い人にもチャンスを与えたい、繁昌亭からスターを生み出したいという桂三枝上方落語協会会長の思いから創設されたものだ。通常の繁昌亭の昼興行では中堅でトリを務めることはなかなかないことだが、大賞受賞者には昼席でトリをとるなど特別の権利が与えられる。また、ほかの受賞者も寄席興行の中でいい出番が与えられ、繁昌亭主催の夜席でも受賞記念の落語会などが開催されるほか多くのチャンスに恵まれる。
2011年度は笑福亭鶴二さんが繁昌亭大賞受賞の栄に輝いた。奨励賞は月亭八天さん、桂よね吉さんの二人、爆笑賞は桂三象さん、輝き賞には露の団姫さんが選ばれ、創作賞は見送られた。鶴二さんは1986年に六代目笑福亭松鶴師に入門。笑福亭の中では珍しく音曲噺や芝居噺を得意とし、昨年は大ネタでお家芸と言える「らくだ」を演じるなどチャレンジを続けている。入門25年のキャリアでの受賞となり、同期の八天さん、三象さんとの同時受賞で喜びを分かち合った。
奨励賞の月亭八天さんは月亭八方門下。古典落語に熱心で勉強会を続ける一方、定期的に田中啓文さんら作家の人々が創った落語も発表し続けている。同じく奨励賞を受賞した桂よね吉さんは桂吉朝門下で1995年の入門。芝居噺を得意とし、華ある芸で人気を集めている。爆笑賞の三象さんは桂三枝門下。師匠の創作落語を演じるほか、「三象おどり」と銘打つ独特の創作舞踊で唯一無二の存在だ。輝き賞の露の団姫さんは2005年に露の団四郎さんに入門。元気印のキュートな笑顔がチャーミングな女性で「輝き賞」の中では最年少の受賞となった。
繁昌亭大賞は選考の日が公になっていない上、賞が決まり次第、順に受賞者に電話連絡され、選考会の後に開かれる会見には都合のつく者だけが駆けつけて出席するスタイルになっている。毎回何人が会見に出席できるのかドキドキだ。今回は鶴二さんと三象さんが会見に出席し、喜びを語っていた。この日は桂吉朝さんの七回忌追善公演の前日。奇しくも弟子の吉坊さんが「咲くやこの花賞」を、そしてよね吉さんが「繁昌亭大賞奨励賞」を受賞し、翌日の追善公演に花を添えた。天国の吉朝さんも喜んでおられただろう。賞に寄り添うようにさまざまなドラマがあるのだとしみじみ思った。
あたらしいらくご(2)
2012年1月10日 投稿者:日高 美恵 カテゴリ:らくごくら
学校の先生、会社員、主婦など落語台本に応募する人もバラエティに富んでいる。時間に余裕のある年配の方がやはり多いが、高校生の応募も以前あった。今回の応募作の約6割が関西圏から、3割が関東圏からのものだが、北海道から九州まで応募者のエリアは幅広い。加えて今回はオランダ在住の日本人女性からの応募もあったそうだ。CDやDVD、インターネットなどの発達で遠方の人でも気軽に何度も上方落語を楽しめるようになったことも多くの人が落語台本を書く要因の一つかもしれない。
毎年、入選作や最終選考に名を連ねる“常連さん”が複数いるし、放送作家やタレント、漫才師の人の応募も目を引く。「2丁拳銃」の小堀裕之さんは上方落語台本だけでなく、東京のコンクールでも受賞歴がある常連の一人で、受賞作の小堀作品はすでに何人かの落語家によって各所で演じられている。入選には到らなかったが、今回、ある人気漫才師の作品もかなりいいところまで残っていたそうだし、前回はタレントの杉岡みどりさんも入選を果たしている。自身が演者だけに、組み立て方やコツなどがわかっているのだと思う。最近は芸人さんに限らず、素人の人で落語を演じる人も多く、その中には自作の落語を演じて好評を博している人も多くみられるようになった。
それぞれの職業、それぞれの生き方を軸に落語を創るとその幅もぐっと広がるだろう。実際の経験というのは強い。あまり専門的すぎては受け入れにくいかもしれないだろうが、ほかの人では気づかない独自の視点と経験や知識がリアリティを持たせ、新鮮さや面白みが増すのだろうと思う。そういう意味では落語家に転身した「世界のナベアツ」改め桂三度さんが創る新作落語も今までのものとは違ったタイプの落語を生み出してくれそうで、大いに期待してしまう。
「10年先、20年先もできるような、練り上げたらおもしろくなるような作品を待っています。身の回りにあるようなものをテーマに噺を構築してもらえたら」と三枝さんは話していた。「ストーリー展開があること、テーマがあること、おもしろいものがあって、今までになかった形、サゲがすとんと落ちること」というのが前回、三枝さんが入選に向けて挙げた条件だ。よく考えると、これはそのまま三枝落語に当てはまっている。“創作落語の天才”である三枝さんが創る落語はとても身近で、普遍的だ。身近なだけに自分にも作れそうに思えるが、三枝さんレベルの作品を作るのはかなり難しい。創ることと演じること。その両方の才能を備えているのは本当に一握りの人だ。
その意味においても、落語作家の存在は重要だ。そしてその筆頭は何と言っても小佐田定雄さんだ。亡くなった桂枝雀さんにいくつもの名作を提供し、その後も多くの落語家に新作を書いてきただけではなく、米朝師匠も厚い信頼を寄せ、多くの落語家が自身で演じようと思う落語の見直しや再構成をする際にアドバイスを頼んでいる。親切で気さくな人柄で多くの人から信頼を受け、誰からも愛される唯一無二の存在だ。小佐田さんが会社員をやめ、落語作家に専念されなかったら今の上方落語の状況はどうなっていただろうと思うこともしばしばだ。
これまでに数多くの落語を創ってきた小佐田さんだが、時代を古典落語とほぼ同じ時代に設定して創ることがほとんどだ。中途半端な時代に設定すると時代の流れに遅れてしまい、かえって古臭く感じられるという。落語家が増える中、小佐田さんが急務と感じ、友人の荻田清さんとタッグを組んで2009年から始めたのが「超古典落語の会」だ。江戸時代の咄本や明治時代の速記などから、現在では上演されていない噺を発掘し、現代に蘇らせ、落語家が実際に演じるという試みだ。荻田清さんは小佐田さんとは大学時代からの友人で、歌舞伎などを研究する大学教授が本業だ。2008年に久しぶりに二人でお酒を飲んだ時に小佐田さんがこの企画を提案し、実現することになった。
二人が最初に決めたことは「珍品」はやらないということ。「できるだけみんなができるものを創ろう」ということで演者とも相談し、著作権もフリーにしているという。「気に入った人は誰でもやってください」という粋な心意気だ。元ネタの発掘は学者である荻田さんが担当。そして、荻田さんはこれを機に落語を書き始めた。大学で落研に所属して高座の経験があり、落語の研究もしていた荻田さんだけにツボは心得ている。この会は2009年秋にスタートして以降、年に約2回を開催するスタンスで続けられている。小佐田先生、荻田さんの二人で始めたが、途中から落語作家のくまざわあかねさんが加わり、今年の2月で5回目を迎える。毎回4席、2月の公演分も加えるとトータルで20席が生み出されることになる。半ページくらいの元本から出来上がった落語の素晴らしい出来ばえに驚かされることもしばしばだ。この会で生まれた落語が各所で演じられるなど広がりもみせている。
この会は「レベルを保つ」ことを基本に、当初から5回でいったん区切りをつけることを決めていたそうだ。第一次の「超古典落語の会」は2月の公演でいったんピリオドを打つが、元ネタが集まり次第、再始動することになっている。膨大な本の中から使えるものを探し出す作業はたいへんだが、早々の再開を待ちわびるファンも多い。現代を描く新作は演じる期限が限られるものも多いし、演じることに抵抗がある落語家も多い。だが、この会で作られた噺なら「昔あった落語だから」という理由で手掛けるハードルもぐっと下がる。時代設定といい、内容といい、古典でピカイチの腕を持つが新作には二の足を踏むという演者も遠慮なく演じることができるだろう。「超古典落語」は色褪せない新作だ。今までの新作とは違う位置に立ち、誰にでも門戸を開いた「超古典落語」という分野の広がりを願ってやまない。
あたらしいらくご(1)
2012年1月10日 投稿者:日高 美恵 カテゴリ:らくごくら
2011年12月13日に上方落語協会が募集する「上方落語台本」の入選作が発表された。これは将来に残る新作落語を一般から広く公募するもので、繁昌亭のオープンを機にスタートし、今回で4回目を迎えた。毎年2月から8月までの半年間の間に寄せられた落語台本が上方落語協会所属の落語家と繁昌亭の恩田支配人らによって選考され、毎回、入選作が繁昌亭の夜席で落語家によって実際に演じられる。
初回が440編、2回目が235編、3回目が245編、そして今回は300編の新作落語が全国から寄せられた。2回目からは一人の応募が2編までに限られたため応募数が減っているが、これだけの作品を読み、その中から入選作を選ぶのは並大抵ではないだろう。選考は1編に付き、必ず2名の選考委員が目を通し、ランク分けして選んでいく方法をとっている。今回は300編のうち、38編が二次選考に残ったが、結局、大賞は3年連続で見送られた。前回から選考に参加している桂小枝さんは「(選から)もれている中にも素晴らしい作品があって、残念に思っています。このまま眠らせてしまうのはもったいないという作品もありました」と話していた。同じく、前回から選考委員を務めている月亭八方さんは前回の会見で「どの作品を見ても見事なほど落語を愛していると感じました。それぞれ、思いを持って(入選作を)選んだと思います」と苦渋の選択を語っていた。
もちろん、選考委員のセンスや趣味、考え方も大きく作用するだろうが、自らが演者だけに、読み物ではなく“演じるもの”としての客観的な選択に狂いはないだろう。選考委員に名を連ねる落語家は桂三枝上方落語協会会長を始め、笑福亭福笑さん、月亭八方さん、笑福亭仁智さん、桂小枝さん、桂あやめさん、桂三風さん、月亭遊方さんの8名で、自分で新作を創り、演じる人が大半だ。読み進むうちに、「このセリフはこの方が」とか「ここにこのシーンはいらないのではないか」など自身で作る体験と重なり、「自分なら」と思うこともしばしばあるだろうと思う。今回、三枝さんは大賞が出なかった要因のひとつに「手を加えれば形になるものはあるんですが、手を加えなくても落語として残るものがない」と話していた。なかなか厳しい基準だと思ったが、「レベルは上がっています。高望みしているかもしれませんが、もうあと一息だと思います」という言葉に創り手としてこの賞への妥協を許せない真剣さが感じられた。
会見で選考委員がしばしば口にするのが「マクラまで書いていたり、セリフが長すぎたり、登場人物が多すぎることがある」ということだ。出版されている落語台本などにはマクラも書かれているし、それをお手本にしていたら、マクラも書かないといけないと思う人がいるだろう。読む分にはいいかもしれないが、実際に高座で演じる時には登場人物が多いと演じ分けも難しくなってくるし、聴いている方もわかりにくい。セリフが長すぎるとリズムやテンポも変わってくるだろうし、技術が要求され、誰でも演じることができるというわけにはいかない。また、ストーリーよりギャグを重視して言葉遊びに終始した作品もあるという。落語台本は書いて終わりではない。「書く」ということ以上に実際に観客が聴いた時にどうなのか、演じ手にとってはどうなのかが重要となる。まずは「落語を見る」「落語を知る」ことが前提にあるということが落語台本と文学などの読み物との違いだろう。
選考委員の福笑さんは「(台本は)シンプルなものがいいと思います。その方が落語家も変えやすいです」と話している。演じ手が取捨選択して噺を膨らませ、築き上げていくのも落語の面白さだろう。噺と演者、そして目の前の観客とのセッションで落語は創り上げられていく。今日のお客さんにはこのギャグを入れたほうが受けるとか、ここは抑えて演じておこうということを空気で察知し、落語家自身がその場に応じて噺を演じ分けていくということを知った時はほんとにすごいと思った。もちろん経験や鍛練で磨かれた技でもあるし、それはまた高座に上がり続けるためには必要不可欠なことでもある。古典落語も時代や人と共に進化しているし、一言一句習ったままに演じたとしても、演者と観客で作る空気感が起こした化学反応で、その人のそれまでの落語とも、ほかの演者のものとも違う“別の一席”が生まれている。だから生の高座に向き合うたびにいつも「落語は生きている」と実感する。
入選しなかった応募作品の中にも、「部分部分で光るものがあって、ここは使えると思う箇所がある」と小枝さんは言っていた。応募作は上方落語協会に帰属し、保管されているので、落語家はこれまでの作品を自由に閲覧することができる。1から落語を創るのは容易ではないが、応募作の中に新しい落語のヒントを見つけるかもしれないし、自分の相性にあった作品が眠っているかもしれない。応募作の中から自分に合った落語を見つけて演じる“発掘落語会”もすでに開かれている。自身で新作を創ることのできる人もいれば、自身で創ることはないが、古典やほかの人の創った噺を見事に演じる人もいる。散りばめられた鉱石を見つけて磨き上げ、光らせる能力を持つ落語家もいるだろう。作家としての能力、噺を演じる能力、プロデュースし、演出する能力。その複数を持ち合わせる人ももちろんいるが、それぞれが自身の個性と能力に合わせて独自の世界を紡いでいけば、限りない個性の輪が広がっていくだろう。
さまざまな要素
2012年1月10日 投稿者:日高 美恵 カテゴリ:らくごくら
「繁昌亭は日々成長する小屋だなぁ」といつも思う。手探りでスタートした小屋だからこそ、無限の可能性が秘められている。歴史を重ねていく過程の中だからこそ、失敗があってもやり直しが許されるし、それをチャンスとしてもっと大きな飛躍につなげていくことができる。開席してからというより、開席する以前から、落語家だけでなく、スタッフの人や商店街の方々、関係者、そしてお客さんの全方向からの大きな力が繁昌亭をぐっと押し上げている。それぞれの胸に浮かぶ「こうしたらどうだろう」「こんなことがあったらいいのに」という声を聞き流すのではなく、きちんと受け止める柔軟性があって、実現させる実行力、早急にやり遂げることのできる即戦力の存在が繁昌亭の成長を支え続けている。
「存在を忘れさせない」ということはとても大切なことだし、それを実践し続けることは難しい。その意味で繁昌亭の動きはすごいと思う。落語を中心とした定席の昼席、それぞれの落語家が腕を競い合う落語会の場としての夜席という大きな柱を中心に、季節ごとにさまざまなイベントが行われている。周年記念を盛大に祝うほか、昼席では餅つきなどの行事や成人の日、バレンタイン、11月22日の「いい夫婦の日」などの記念日に特別なプレゼントが用意される。着物を着て来た人にはキャッシュバックもある。そして、新しい試みがあるたびに記者会見が開かれる。常時、繁昌亭の話題が新聞やテレビなどで紹介され、行事に加えて繁昌亭の存在自体をアピールすることにもなる。渡って行きやすい繁昌亭への橋がいくつも用意されているのだ。「営業している」だけでなく、発信しなければ多くの人の心に届かないということを知っているからこその妙案だろう。
でも、お客さんを招くだけでは結果にはつながらない。落語に加え、目に見えない心配りもそこかしこに施されている。前座さんがつとめることもあるが、上方の落語会ではお茶子さんと呼ばれる女性が座布団やメクリをかえす。繁昌亭の舞台裏には何色もの座布団が用意され、それぞれの演者の好みに応じた色の座布団をお茶子さんが高座に運ぶ。着物の色に合わせてというのはもちろんだろうが、当日の演者の気持ちや雰囲気などによっても選ばれる色は変わるだろうし、その演者の気持ちの高揚は演じる落語にも反映されるだろう。お茶子さんはどの人もみんな可愛くて、出てくるたびに明るく、和やかな気分になる。最近は三味線さんや鳴り物方とともにお茶子さんの名前が明記されているパンフレットも多いので、みなさんおなじみのお茶子さんも多いだろう。落語会が多く開かれるシーズンでは繁昌亭を問わず、落語会の掛け持ちをしているお茶子さんもいて驚くことがある。“誰か”ではなく、“この人で”というお茶子さんのポジションの高さの現れだろう。
また、繁昌亭の内外には四季折々を感じてもらおうという思いでスタッフの人が季節に応じた飾りつけをしている。来場者は季節ごとに変わる風景を見、寄席で演じるネタもひっくるめて季節を楽しむことができる。週替わりの昼席では季節に合った噺を演じる趣向なども行われている。12月12~18日には「忠臣蔵」特集と銘打ち、連日「忠臣蔵」にゆかりのある噺が演じられた。「五段目」(染丸)、「長屋浪士」(梅団治)、「AKO47~新説赤穂義士伝」(八方)、「蔵丁稚」(米団治)、「淀五郎」(雀三郎)「質屋芝居」(春之輔)、「中村仲蔵」(新治)というラインナップだ。
「長屋浪士」は落語作家の小佐田定雄さんの新作、「AKO47~新説赤穂義士伝」は八方さんがなんばグランド花月で見た中川家の漫才をヒントに作った新作だ。大勢で一人を討つのは卑怯だと後世の人に思われないために、赤穂の四十七士が一対一で戦う一人(センター)を人気投票で決めるというAKB48と「忠臣蔵」をパロディにした爆笑篇だ。八方さんはご自身の稽古場兼寄席「八聖亭」で毎月ネタおろしの会をされていて、この「AKO47~新説赤穂義士伝」は今年6月にネタおろしをした噺だ。私はネタおろしを聞いていて、おもしろいと思ったのだが、ご自身はあまり納得がいかず、終演後には「もう二度とせえへん」とおっしゃっていた。だが、その後、手を加えてバージョンアップさせ、今年のなんばグランド花月での初の独演会では“目玉”のネタとして登場させるほどに仕上げていった。八方さんはいつも、「最初にあかんと思ったネタほどあとでいい持ちネタになるねん」とおっしゃるが、この噺もまさにその一作。落ち込んだことをバネに大きく進化させる姿にはいつも驚かされる。そのネタが繁昌亭昼席の「忠臣蔵」特集に並べられるのはすごいことだと思う。
「忠臣蔵」特集以外に、同じ噺を連日違う人が演じる“聴き比べ”ともいえる企画や女性の落語家を中心にラインナップした週など恩田支配人のアイデアで昼席でも多彩な趣向が用意されている。寄席は基本的にネタ出ししないので、当日でないと何のネタが演じられるのかわからない。出番によって持ち時間は決まっているから、演者は前に出た人のネタを見て、限られた持ちネタを即座に選び、持ち時間の枠内で演じることになる。長めのネタでもうまく調整しながら時間内に演じている姿をみるといつもすごいなぁと思う。目の前に掲げられている時計を意識し、時間を考えながら演じている人もいるだろうが、いつも「さすがはプロ!」と感心してしまう。定席のスケジュールを見るだけだと同じメンバーが並んでいるだけのように思えるが、趣向があると日々違う色合いがあって楽しいし、日々変わるセッションみたいなものだと考えると、同じメンバーでもぐっと立体感あふれるものに思える。一門によって芸風も違うし、もちろん人によって考え方ややり方も違う。それぞれがぶつかりあい、どんな化学反応が生まれるかを楽しめるということが寄席の楽しみかもしれない。
会のあり方
2011年12月14日 投稿者:日高 美恵 カテゴリ:らくごくら
芝居噺などのマクラで演者が、「歌舞伎と落語では入場料が一ケタ違います!」と入場料やお客さんの服装の差を比較して笑いを取ることが多い。そのマクラの通り、歌舞伎の入場料が高額なのに比べて落語会の入場料はとても安く、断然足を運びやすい。舞台上の演者1人で世界を創り上げる落語に比べて、歌舞伎は豪華な衣装や舞台セット、多くの役者陣を必要とする別の芸術だというのを承知の上で、それも笑いに変え、“落語は庶民の芸”という親近感を持たせてしまう落語家はすごいと思う。
上方の落語会では大御所が並ぶ会でも前売りならだいたい4000円くらいまでという価格設定が多い。以前は入場料ももっと安かったが、最近は上方でも落語会の入場料が高額化してきている。毎年年末に開かれている桂文珍さん、桂南光さん、笑福亭鶴瓶さんの三人会「夢の三競演」の入場料は消費税込みで6300円だ。開催当初、落語会にしてはあまりの高額に物議をかもした。当時、米朝師匠が出演する一門会でも4000円くらいまでだったので、米朝師匠から「ええ値とるなぁ」と言われた南光さんは冷や汗をかいたと言う。これは芝居や音楽の公演なども考慮に入れて設定された入場料だが、破格の値段にも関わらずチケットは即完売。「このメンバーならこの料金でも仕方がない」というのが観客の答えだったのだろう。その分、この落語会はスペシャルだ。会場に着いた時から「夢」の世界の扉が開いている。入り口には幟が立ち、若手の落語家が座席への案内役をつとめる。主役の三人が全力投球で挑むのはもちろんだし、セットも豪華だ。会のラストには当日会場にいる落語家全員がダンスを踊るなど、会全体がサービス精神にあふれた仕上がりになっていて、年に一度、年末のこの会を心待ちにしているファンも多い。
独演会もキャリアによって入場料は変わってくるが、前売りで2000円から4000円くらいまでだし、勉強会なら前売りで1500円、2000円くらいといたってリーズナブルだ。入場料が500円という落語会もあるし、無料の落語会だってある。天満天神繁昌亭の昼席は色物も交えて10組が出て、3時間以上楽しめるのに前売りは2000円。芝居やコンサートに比べると断然安い。歌舞伎や芝居に行くたびに、この一回で落語会に何回行けるだろうと反射的に考えてしまう。入場料が安い上に、抽選会も付いているという会も多い。支払った入場料以上のものが抽選で当たった時など嬉しい反面、申し訳ないという気持ちにもなってしまう。「勉強会は入場料が安くても仕方ない」と言われればそれまでかもしれない。他ジャンルの古典芸能の方から、「落語は勉強会でお金を取る」と苦言をいただくこともある。だが、勉強会と言ってもかなり質の高い会だってあるし、“勉強会”という一括りでも、演者によって意識は全然違うのだと思う。
ネタおろしをする、持ちネタの虫干しをする、研鑽のために続ける。勉強会を定期的に長く続ける人もいれば、特定の会を目指して階段のように積み上げていく人もいる。自分が中心となって毎回ゲストを招いて開く、同期や同じ一門で開くなど人によって勉強会への向き合い方はさまざまだ。本人にとって“勉強会”のつもりでも、お客さんにとっては“勉強会”以上の会だってある。その落語家さんを生で見る、その高座に立ち会える一期一会を幸せに感じて“勉強会”という位置づけの会へ足を運び、その成長を目の当たりにし、演者とともに時間を過ごすことに喜びを感じる。京都府立文化芸術会館の3階和室で定期的に続けられている「上方落語勉強会」では毎回、落語作家の小佐田定雄さんとくまざわあかねさんが交互に書く新作を演者がそこでネタおろしし、演題を当日の観客が決めるスタイルをとっている。新作の名づけ親になるなんて、とても素敵なことだし、その噺にもぐっと親近感が湧く。新しい落語が生まれ、命名される瞬間に立ち会う臨場感は代えがたいものがあるだろう。
“勉強会”の時に演者がネタおろしに挑んでうまく行かなかったり、実験的なものに挑戦する会で自分の思惑と違う結果に終わることもあるだろう。忙しい中、時間を割いて行った会が思っていたのとはかなり隔たりのある状況で「時間を返してほしい」と悔しく思うこともある。だが、振り返ってみて、その会に立ち会えたことが貴重に思えたり、「あの時はあんなだったのに」とその変わりようを喜ぶ時が来るかもしれない。若手の人が成長していく段階を伴走する楽しみもある。そんな可能性も何もかもをひっくるめて勉強会に足を運ぶ落語ファンも多いと思うし、それが本来の落語ファンの姿だと思う。
だが、「今日はあかんかったな」というのは落語ファンにのみ通用する言葉だ。音楽や映画ならこのコンサート、この作品が面白くないと思うことはあるが、もう二度と映画やコンサートに行きたくないとは思わないだろう。だが、初めて行った落語会が自分にとって面白くなければ、「落語自体が面白くない」という固定概念が脳裏に焼き付いて、もう落語会には足を運ばなくなる。最初に見た落語が自分に合わなくて、落語を見なくなることはとても残念なことだと思う。そのことをよく知った上で、「”ブーム”と呼ばれる落語熱が高まり、落語初心者が多く訪れる時にこそ頑張らなければ」と一席、一席を全力投球で演じた落語家も多い。前だけでなく、足元をしっかり見て走るその姿に、応援しながら伴走するファンも増える。そしてそのファンの存在があってこそ、目の前に続く長い落語道を踏み外すことなく走っていけるのだろうと思う。
東奔西走(2)
2011年12月14日 投稿者:日高 美恵 カテゴリ:らくごくら
落語家の数が大幅に増えたことに伴って、落語会の数自体も激増している。その結果、一日にいくつも会が重なり、お客さんも分散してしまう。カラーの違う演者の会ならまだしも、両方の会に行きたいと願う落語ファンが悩ましい思いに駆られることもしばしばだ。落語会の数が少なかった時代にはほかの会とかぶらないように落語会の日を設定して開いていた落語家さんもいた。それだけ落語会がない日も多かったし、みんな時間にも余裕があった。だが、今は会が開かれない日はないし、出演者のスケジュールに合わせて日程を決めるので、ほかの会と日程の調整をすることも難しい。
会が増えたことで、掛け持ちをこなす落語家さんも増えている。また、会の主宰者が前座に出る若手を確保するのに四苦八苦している姿もよく見かける。一日にいくつもの会を掛け持ちして走る若手も多く、みんなとても忙しい。関西一円だけでなく、遠方に行く“旅”公演もあるので若手が掛け持ちできない時もある。だが、こんな「働きもん」の若手事情は結構深刻で、なかなか前座が決められないことが師匠連の悩みのタネになっているらしい。
少し前までは落語会にはいつも若手の落語家が何人か手伝いに来ていたが、忙しさもあってか、最近は誰も手伝いに来ていない落語会もある。落語会では普通、笛や鳴り物は手伝いに来ている若手が担当する。上方の落語会では笛がないと寂しいので笛の吹ける若手は引っ張りだこだ。予算のある大きな会では別に笛や鳴り物の人を頼むことができるが、勉強会などでは笛と前座の両役をこなす若手が求められる。1,2名の演者と三味線さん、笛の吹ける前座の若手がいればチームを組んで旅公演だって十分に回れる。
楽屋をのぞくと誰も手伝いに来なくて、出演者自らが鳴り物を打っている姿もたまに見かける。芝居噺や鳴り物が必須の噺の時はあらかじめ頼むこともあるが、「誰か来てくれるだろう」という思いが裏切られ、手伝いの人がいなくてたまたま来ていた関係者がカネなどを打っている姿も見かける。人手不足の波はここにも押し寄せているなと思う。演者渾身の一席も鳴り物一つでぶち壊しになることだってあるから、落語会を開き、落語を演じることは一人だけではできないなとつくづく思う。
会を開催する人にとって、前座さんに加え、三味線さんの確保もいつも重大な問題だ。三味線はプロの女性が弾いている。一時は三味線を弾く人が少なくなり、三味線が不可欠な上方落語界にとって後継者不足が憂慮された。自ら「鳴り物教室」などを主宰し、お囃子の育成に力を注いてこられた四代目林家染丸師匠をはじめとする方々の恩恵が生き、今は三味線を弾く女性もずいぶん増えてきた。予算の関係や三味線さんの確保が難しくて、出囃子にテープを使うこともあるが、芝居噺などハメモノ入りの噺はテープではできない。だから、上方では小さな勉強会でも生の三味線が入っている。それに最近は古典落語だけでなく、新作落語でも三味線や鳴り物が入る噺が増えてきている。慣れないこともあるのだろうが、ハメモノを入れない東京の落語を聞くとなんだか物足りない気がするし、東京の落語家さんでも最近はハメモノ入りで落語を演じることがある。開演前の張りつめた空気の中、落語家さんが三味線さんと念入りに音合わせをしながら演じてみる様子を見ると、これから始まる高座への期待が高まり、うきうきした気持ちになる。
公共ホールや各都市主催の落語会も増え、大阪や京都、神戸などの都市を飛び出して、みんな東奔西走している。終演を待たず、出番が終わると同時に会場を出る落語家さんや三味線さんの姿を見ると落語の波がより遠くへ広がっているのだと思う。加えて、最近は東西の垣根などまるでなかったかのように、東京の落語家さんの会もずいぶん増えてきた。その落語家さんや東京落語が好きで足を運ぶことはもちろんだが、今までに見たことがないから一度見てみたいという思いや、なかなか見る機会がないから大阪で会がある時にと足を運ぶことも多い。上下の層と東西の幅がどんどん膨らみ、多様化も進んでいる。どの会に足を運ぼうかとファンの側の悩ましさもどんどん増している。
交通もめざましく発達し、東京など遠方へ日帰りで落語を見に行く人も多い。好きな落語家が東京でお昼に、大阪で夜の会に出演する時はその両方を追いかける人だっているそうだ。落語家のフットワークも軽くなったが、落語ファンのフットワークも驚くほど軽い。亡くなられた人も含め、東西の落語家のCDやDVD、本も続々と発売されている。それだけ売れるということだろう。東京だけで公開されていたシネマ落語も全国公開になった。ライブ繁昌亭を毎日欠かさず楽しんでいる人もいるし、ネット配信の落語を楽しむ時代にも突入した。生の舞台を見るファンだけでなく、映像や音で楽しむファンも合わせればどれだけのファンがいて、どれだけの時間を落語に費やしているのだろう。落語家も忙しいが、落語ファンも忙しい時代になっている。

